ジョナサンと私(1)


人生には様々なドラマがあります。今や珈琲技術については堂々とご案内するようになった私ですが、18歳の私が、感動の珠玉の珈琲との出会いを果たしたのと同時期に、飲食業への姿勢を脳天からつま先までたたき込まれたのが、特に首都圏の方々は今やご存じの方が多いファミレスの老舗、しかし当時はまだ会社設立草創期の「ジョナサン」です。私の人生とは切っても切れないジョナサン体験について、ご紹介しておきましょう。

明るく前向きな日々

1982年、まだ誕生日前の18歳だった私は、初めてのアルバイト先に、27号店として開店準備を行っていたジョナサン狛江店を選びました。

 ジョナサンの27号店として1982年に開店した狛江店

2022年現在の207店舗からみると、1979年に株式会社ジョナス(当時)が創業した直後、まだ草創期と言える時期に、メンバーになることができたわけです。このことは非常に幸運だったと、私自身、かなりあとになってから知りました。

ジョナサン(当時株式会社ジョナス)の責任者は、すかいらーく4兄弟の中心人物とも言えた横川 竟(よこかわきわむ)社長でした。後に日本フードサービス協会第11代会長となり、外食産業のトップをつとめ、旧経営体制のすかいらーくホールディングス経営騒動で2007年に一旦第一線を退いたあと、現在も、新規ビジネスとして始めた高倉町珈琲社長として、つい昨年2021年に、チェーン40店舗を達成したばかりの、バリバリの現役経営者でもあります。

今も心から尊敬する横川竟社長については、いずれ別の機会に、飲食店ビジネス論を語る際には必ず触れなくてはなりませんが、将来のお楽しみとして残しておき、きょうは、私自身の飲食業との出会い草創期のことを語らせていただきます。

ジョナスという会社は、設立当初は、米国の大手コーヒーショップ(アメリカでコーヒーショップというと後に日本で概念ができたファミレスに近い)チェーンだったサンボーと、すかいらーくが、アメリカンコーヒーショップの日本上陸という企画で50%ずつ出資して開始した新規事業体でした。実は、サンボーはその後本国で経営破綻し、ジョナサンはすかいらーくの100%子会社となり、経営体制は大きく様変わりしていくのですが、その話はさておき。

大学1年から3年までを過ごしたこの初期のジョナサンで、新規飲食業チェーンとしての冒険、横川竟イズム、アメリカンコーヒーショップのセオリー、現場での接客応対技能などを、一度に体験して学ぶことができたのは、後の私の人生にとって、とても大きな財産になっています。

狛江店はジョナサンの中で売上上位であったこともあり、横川社長直結幹部であった八代マネージャーが地域担当として頻繁に来てアドバイスを受けられたことが、飲食店現場での多面的な経営視点を直接学ぶ貴重な機会になりました。私はアルバイト6ヶ月で他の1名とともに、狛江店初の役職トレーナーに昇格しており、八代マネージャーがカウンター席でレポートを書きに来ると、2時間ほどの間に数回、1~2分のショートトークで、フロア管理、調理提供の在り方から、本来なら絶対に守秘義務のはずの、会社としての新規輸入食材の検討に至るまで、あらゆることを教えてくれたり、時には相談してくれたのでした。

フィッシュフライ向け低価格輸入原料として、カナダ産オヒョウ(アメリカのフィッシュアンドチップスで普及した中深層の大型カレイ類の一種)がいいか、またはメルルーサ(世界の大陸棚斜面の未利用資源として1970年代に注目されたタラ目の資源魚)が良いか、という話題の際は、私が日大水産学科の現役学生だったこともあり、大学で仕入れた水産資源の話題を、八代マネージャーがむしろ真剣に聞く場面もあり、立場をわきまえぬ私の話を、やさしく受け入れてくれる懐の深い方でした。

また、狛江店では、ホテルマンのように管理や接客まですべてにスマートで上品な初代細川店長、常に明るく振る舞い言葉で人の心を開いてしまうコミュニケーター2代目萩原店長、重圧や負担に耐え笑顔と気配りを絶やさないニヒルな3代目西島店長と、ジョナサンが店舗数スピード拡大時だったこともあって店長が次々に代わり、指導者それぞれの飲食業ポリシーを短期間に次々に凝縮して学べたことも幸運でした。

ジョナサン急速拡大期

3年目の1984年に入ると、倍以上に急拡大していく店舗数に合わせ、様々な中途採用社員が配属され、すでに私は役職トレーナーとなって長く務めていたことから、社員への教育も体験できたことで、すさまじい忙しさの一方、自分自身さらなる成長ができた、凝縮された期間でした。

当時ジョナサンへの正社員職員採用は、何らかの社会経験を積んだ30歳前後までの中途採用が主体で学生新卒は居ませんでした。そのため、金融機関に6年間勤めていた、という方や、母親が経営する赤坂の高級パブで学生卒業後何年も働いていました、という方、また狛江店3代目店長のように、かつて人気タレント兼俳優だった方もいました。中には30歳を過ぎて新人社員として配属されてくる方も居て、戸惑いや確執も生まれつつ、一方で各種業界の現代事情を近しく聞けたのも幸運でした。

こんな環境の中にあるので、ハプニングも体験しました。若いOL客ふたり組が来店して、「あれもしかして西島明彦じゃない?サインくれないかな」という場面に直面した体験も今となっては楽しい思い出です(当時の西島店長の名誉のために言いますが大事な職務中に個人のサイン要請をOKすることは決してありませんでした)。このときのOLさんたちが色めき立っていたのは、数年前のウルトラマンタロウへの出演よりも、同時期の夕刻の人気バラエティー番組だった、せんだみつお総合司会の「ぎんざNOW!」の来場者インタビュアーとして女子高生や若い女性から人気を博して生出演していたことが原因でした(改めてウィキペディアで調べてみたところ、ウルトラマンタロウを第35話で降板したのは所属事務所が「ぎんざNOW」の出演継続を優先したため、と書かれています)。

(つづく)

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