ジョナサンと私(2)


ファミレス文化発展期

1970年に、現在のJR南武線西府駅(当時はまだ駅はなかった)近く、東京都府中市の西端(国立市との市境近く)の甲州街道下り線沿いに、「すかいらーく」一号店が開店し、日本におけるファミレス文化はスタートしました。今は店の名称としてはなくなったすかいらーくのことを書こうとすると、また長くなるので割愛しますが、とにかく後の世に影響を及ぼす新しい文化が数々発信されました。兄弟で起業したため、すでに当時30代で経営幹部だった、後のジョナサン横川竟社長は、この頃から独自アイデアを多数「乱発」していました。

たとえば、今なら飲食店でもスーパーマーケットでも、雨の日の玄関先設置が当たり前の、「ポリ傘袋(使い捨て回収型)」は、この草創期のすかいらーくの発明であることは有名です。また社内全員の大反対を押し切って、今なら飲食チェーンの常識となっているセントラルキッチン方式を業界で初めて実現し、誘致初期だった東武線森林公園駅南側の埼玉県有数の広大な工業団地内に好立地を得て「すかいらーく東松山工場」を創設。生産基地であると同時に一種の研究開発基地としてもフル機能させ、一級の料理を、仕上げ調理のみ店舗で行うスタイルを確立して、スピーディーかつ同じ味をどこでも実現し、同時にコストダウンも成功させました。

一方、1979年に株式会社ジョナスが設立された頃には、すでに1974年の神奈川県上大岡店からスタートしたデニーズや、福岡の老舗レストラン&ベーカリーだったロイヤルが1977年に東京三鷹にロイヤルホスト首都圏第一号店舗を開店し、両社もすかいらーく同様にたちまち大規模チェーン展開に発展していった時期でした。

1982年、小田急線狛江駅からほど近い狛江農協前にジョナサン狛江店が開店した頃、すでに狛江市内で最も交通量が多い「世田谷通り」には、狛江駅寄りの上り線にデニーズ、喜多見駅寄りの下り線にロイヤルホストがあり、いずれもたいへん繁盛していました。ちなみに東京の世田谷通りというのは、環七通りと並んで、ファミレス研究の中心地でもありました。実際に、世田谷通りのロイヤルホスト大蔵(農大前)店は、当時何回も、ファミレスの年間最高売上を記録する店舗として、ライバルチェーンも、お忍び視察詣でに出かける定番でした。

そんな激動の時代の中で、やや後発部隊として、ジョナサン狛江店はオープンしたわけです。

ポリシーと訓練

ジョナサンは、当時のすかいらーく本体や、のちのガストとは異なり、すかいらーくグループとしては、工夫を凝らした高級メニューを提供する、という、ほんの少し高価格帯の戦略を取ったチェーン網です。

そんな経営ポリシーもあり、初期のジョナサンはすべて、家具もメーカーと提携して特注の高級ソファを開発。テーブルは、74~76cm付近という平均アベレージ高をあえて採用せずに、大人向けの座高に合わせて椅子に比べて他チェーンより数cm高く、その代わり、小学生向けのソファ乗せ子ども椅子と、幼児向け床置き椅子を別途準備し、すべての年齢層が、理想的なくつろぎの食事時間を過ごせるようにと、実地テストを徹底的に行った上で、オリジナルの「ジョナサン方式」のテーブル高を確立しました。

ジョナサンはテーブルが高位置。一方で特注の幼児チェア(左端)も配備(一号店の練馬高松店店内)

また、横川竟社長肝いりで、食器も国産最高級磁器メーカーのNORITAKEに特注して全面的に採用(直接オーブン加熱する厚みのあるグラタン皿のみ石川県のNIKKO)。すべてにひと味違う徹底した体制を構築していました。グラスやお皿ひとつひとつが高額なため、もしも割ってしまうとバイトも社員も共通して、これは1500円、これは2300円などと、個人弁償金額も設定されていました。もしトレイをひっくり返しでもしたら、その日の何時間かの時給すべてが簡単に吹っ飛んでしまいます。

当然、接客も一枚上でなくてはならない、という気概があふれており、開店前メンバーとしてバイト採用してもらったおかげもあり、出来上がった店内で、まだオープン日を迎える前の丸5日間、バイト費の支払を受けながら、徹底的に接客応対訓練を受けました。

たとえば、同性同年代のふたりでペアを組み、20m近く離れて正面に立って、「おはようございます!」「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました!」「かしこまりました!」「お待たせ致しました!」「失礼致しました!」などの決まり文句を、できる限りはっきりと大声で叫び合う訓練。肩を触れるほどすぐ横にならぶ別のメンバーも、20m先の相手に叫んでいますから、聞き取るのもたいへんな20人以上の大騒音。決まり文句を自由な順番で発し、相手方が同じ言葉で返す。先攻と後攻を切り替えながら、肩幅に足を開いて直立不動でゼスチャー禁止の声だけの訓練です。

また、お客様が帰ったまま2つのボックス席が散らかった状態からスタートし、いかに早く下げものを静かにまとめ、ダスターで席をキレイにし、不足のペーパーナフキンを補充してメニューその他をすべて整えるかのタイムトライアル。

せっかく早く終わっても、シュガーや爪楊枝スタンドの位置が少しでも斜めだと、ボウリングのファウルと同じように0点。

次のステップに進むと、座席の片側に水がこぼされていたシチュエーションで、それに気づいて別色の専用ダスターを取りに帰って対応することまで含めたトレーニング。

レジにて、副店長が扮したクレーム客が思いつきで様々な文句を言うことに対して、どこまで直接真摯に対応し、どの時点で機転を利かして時間帯責任社員(正社員店長や副店長)を呼んで対応を代わるのかの、判断訓練。

そしてもちろん、24時間を通じて毎時間の点検簡易清掃と、深夜担当クルーに毎日義務づけられていた、本格水流し清掃など、トイレ清掃の手順と点検項目など、バックヤード管理の訓練も繰り返し行いました。

今思うと、研修マニュアルというよりも、指導の多くを担当した副店長格の萩原さん(後の狛江店2代目店長)のアドリブ指導も相当混在していたのだと思いますが、ウェイターやウェイトレス経験が初めてのメンバーに対しては、まったく想定を超えたレベルの訓練が、5日間凝縮されて行われ、気軽なバイトという心理は消え失せて、間もなく大切なお客様をひとりひとり迎え入れるのだ、という意識が、まだ開いていない店舗に通う中で、知らず知らずの内に醸成されていきました。

ジョナサンでは、とにかくスタッフ教育には相当な力点が置かれていました。無事にオープンした直後から、ジョナサン狛江店には、スタッフが休憩時間に食事などを摂る控え室に、接客版18本、クック版18本のVHSビデオ教材シリーズが置かれており、休憩時間や勤務後に順にビデオ視聴して感想記録用紙に記入することが課されました。ビデオは随時追加され、伝説のジョナサン創設7人侍のひとり、と呼ばれていた、商品開発部の戸口主任が、新メニューの完成ごとに、東松山工場の現場で撮影した、新メニューの企画やお勧めポイントから最終調理上の焦げの注意まで、毎回熱意あふれる映像で登場していました。

ジョナサン狛江店の開店前採用メンバーから、私を含めて、のちに多数の「ベストクルー賞」受賞者(全店舗スタッフ総勢の中から選ばれた、わずかトップ20名をシルバー(銀賞)、トップ5名をゴールド(金賞)として、店内管理、接客、サービス態度などを総合評価して表彰する制度)が出ましたが、接客意識を徹底的にたたき込まれた、最初の5日間の開店前研修が、その後の成長にも大きく影響したと思います。

(つづく)

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