1987~89年。日本動物植物専門学院(当時・東京渋谷)の中にできたばかりの海洋生物学科で、私は、図らずも「水族館論」の講師を担当しました。大学時代、世田谷区上馬の同じ研究室(日本大学・水産増殖学研究室・当時)の同輩たちには、水族館の実習生として活動したり、出口吉昭教授(当時)から水族館の現場に研究協力依頼を出してもらい、全国各地の水族館で卒業研究をするメンバーが多数いました。
自分自身も、大学1年生から夏休みには各シーズン、井の頭自然文化園の水生物館にて実習生届けを出して、さらに大学3年生の後半からは、まさにこの水生物館自体を卒業研究の現場として毎週6日間、大学には行かずに、朝から閉館まで現場のお邪魔虫をしていたこともあり、大学の授業で習う以上に、水族館には深い愛着と興味を持っていたのは事実です。
それはさておき、
昨日2022年10月19日、会合に出かけていたRK女史から、「今ポスターで見たんだけど、幕張に水族館誘致しようとしているんだってね」と、LINEが来ました。
そこですかさず、6項目を走り書きして、以下のような内容のLINEの返信を送っておきました。
1)水族館は、小規模でも毎年ランニングコストが2億円程度かかっている例が知られています。
2)イベントや入館料で単独黒字化は、余程のマーケティング能力を発揮しない限り不可能です。日本は伝統的に、マーケティングについては軽視されることの多かったお国柄もあるからか、収支面で成功している水族館は、中々ありません。
3)アミューズメント機能中心な考え方では水族館は、成功しません。空間体験機能、アート性、教育機能など多面的機能がないと社会の広いニーズに答えられず、一度行くと飽きる施設になります。
5)例として教育機能ですが、大小研修室が3つ程度あれば、国内外の学会や、フォーラムイベント開催を多数誘致できます。全国の大学卒論生や、企業、教員研修など、多数のニーズを受け入れられます。
6)例を挙げると(水族館ではありませんが)アメリカのフィールドミュージアム(シカゴ)では、正規スタッフのほかに200名の非常勤スタッフ、500名以上のボランティアスタッフが常時活動していて、このサポートにより、年間一万人以上の学校教員が、短期研修滞在しています。フィールドミュージアムは世界最大の私営ミュージアムですが、通常は赤字経営が当たり前である業界で早くから自立した経営を実現しているため、経営学部の卒論生すらこぞって滞在研究しています。
(↑LINEでの返信は、ここまで)
32年前(1990)、大阪に「海遊館」がオープンしたとき、社会でも騒がれましたが、水族館業界にも、今までにはなかった新風が吹き込みました。
それまでにも日本の水族館の転機は数々あったのですが、高度成長期の旧・上野水族館(上野動物園に隣接して長年存在していた都営水族館)で、多くの庶民が見たこともない世界の珍しい水族に出会う場、としての地位が確立されたあと、関東では、各階の水槽を取り巻くスロープ回遊園路型見学、という、斬新な空間デザインの、よみうりランド水族館が1965年にオープン。大分生態水族館(のちのマリンパレス)の成功を多分に取り入れて、都会にありながら、それぞれの水族の「暮らし」にスポットを当て、本来の生きものとの出会いを演出した池袋サンシャイン水族館(1978)。このほかにも、現在も日本を代表する水族館として研究事業でも常に最先端を先導する三重県の鳥羽水族館や、限られた施設の中においても、数々の飼育最長世界記録を樹立した神戸の須磨水族館などをはじめ、紹介しきれないほどの、個性的、かつ、それぞれに血と汗を注いだ水族館が、全国に展開されてきました。
そんな中でも海遊館は、人間自身の「空間体験」をプロデュースした、という点で、当時の日本の水族館では全く新しい存在でした。今も詳しくは学ぶ機会に恵まれませんが、世界的に有名なサンフランシスコ水族館から、経験や思想の一部を取り入れたという話を、開館当時、耳にしました。オープン直後に見学に飛んでいった際に、エスカレーターで建物のはるか高い階から館内に入り、いきなり響く重厚な音響効果とともに、スケールの大きな空間に包まれる体験は、当時の自分自身にとっても非常な驚きでした。
ところで、その昔、「水族館論」の授業でも必ず触れていた話を、ひとつ紹介します。
春4月になった時。桜の花咲く春。と言えば誰もが思い浮かびます。また、蝶々が飛び始めた、だとか、あるいは野山に数々のスミレの花が咲く、と言っても、多くの人がイメージできるかも知れません。
ところが、そろそろ田んぼの脇の水路で、ドジョウたちが交尾を始める春がやってきました。とは、当たり前ですが誰も言いません。
(人気番組プレバトで俳句の季語にもならないし、夏井先生に叱られて終わることも目に見えています。)
確かに図鑑などを調べればドジョウは春に産卵すると書いてあるかも知れません。しかし水族たちは、人が日常見えない水中で暮らすだけに、身近な距離にあっても、暮らしぶりは見えないし、中々わからない世界です。
中学1年生のときに、中高一貫教育の桐朋学園で生物部に入部した際に、植物班と魚類班のどちらに入るか迷ったときにも、最終的には魚類班を選んだし、中学2年のとき、大学の選択を東京水産大学(当時)にしたい、と発言して、個人面談で担任の坂本先生に「決めるのは早すぎる」とたしなめられたときもそうだったのですが、まさにその理由が「ドジョウたちが交尾を始める春」という事柄だったのでした。
その当時、私は府中市四谷4丁目に住んでいたのですが、家のすぐ北側には稲作水田が残っていて、まだ当時は野生のメダカが採集できたし、4月半ばになると水路から水田にドジョウたちが登ってきて産卵し、5月にはかわいいドジョウの幼魚たちを田んぼの排水で採集することができました。関東らしく、キンブナとギンブナの幼魚たちもそれぞれ少し時期をずらして採集できました。
網を持って外に遊びに出ていて、ドジョウたちの赤ちゃんを見ると、ああ、今年も田んぼに春が来たなあ。
そう実感していたのです。
自然をなんとかして残したい。生きものたちを守りたい。
そう思ったときに、野鳥や野草の名前だったら、図鑑を買えば、大人になっても少しずつ学べるかも知れない。でも、水の中の魚たちのことは、ちゃんと学ばないと理解できないし、これは年を取ってからでは不可能だ。これが中学1年生当時の、私の人生判断の根底にありました。
そして、多くの人がむしろ知らなくてはならないのは、目に見えない水の中で、ドジョウたちが、メダカたちが、人の知らない内にどんどん絶滅させられていることだ。そう考えました。
「地球を守ろう、と粋がってみても、水の中がちっともわからないのでは話にならない。」
それが「魚類班」を選んだ最終決定打でしたし、また、大学で水族を学ぼうと早くから思った理由でした。
さあ、翻って、大好きな水族館についてです。
どうか水族館誘致を頑張るみなさん。水族館を「アミューズメント」としてだけ考えるのではなく、ドジョウたちに親しんだ中学のときの私が思い描いたのと同じように、「人」と「水族」の距離を少しでも縮めてくれる場になるように、心からお祈りいたしたく存じます。
決して、生きものをただ閉じ込めて見世物にするような、単にふれあうだけの虐待の場とならないよう。
人類と地球の明るい未来やSDGs実現の手助け、架け橋となりますよう。
生きものたちの暮らしの研究や教育の、貴重な現場となるよう。
子どもからおとなに至るまで、生きものを愛する心を育む数々の工夫し尽くされた高度なプログラムが提供されるよう。
数々の動物園水族館が経営危機を経て閉館する歴史に歯止めをかけ、社会の中で多面的な機能を担い、多くの人が繰り返し集い持続する水族館像を確立する先駆けとなるよう。
自然を愛するひとりとして、今は、ひたすら、これらのことを祈るばかりです。
(赤井 裕)