30年前の衝撃「日本人は現場に行かない?」


~SDGsシリーズ(1)~

日本人が、とても大事な現場に、誰ひとり行かなかったお話をしようと思います。
 
大学卒業直後から、大学院への進学を目指して、就職活動をしなかった代わりに、高校の非常勤講師や東京都内や千葉県内の専門学校などで教壇に立っていましたが、紆余曲折を経てせっかく合格して通った大学院を中退し、公的な教育機関にわたしが所属を得た1989年には、日本環境教育学会を立ち上げよう!と、関東では東京学芸大学の若き先生方や社会活動を盛んに行っていた環境系NGOの優れた全国多数の有志の皆さんなどが奮起していた時代です。わたし自身が、自然環境や野生生物のことを伝える立場だったこともあり、その後学会が立ち上がって直後までの数年間、盛んに開かれていたグループ研究会などに積極的に参加していた時代でした。仕事が終わってから、夜、都内神楽坂にあった「ジャパンエコロジーセンター」に各地から頻繁に20人以上で集まって、日本の環境教育の課題や方針を論議したり、パソコン通信上で当時愛媛大学助教授だった市川智史さんが始めた「環境教育メーリングリスト(EEM)」にも、初期から参加して盛んに発言を送っていました。
 
1993年5月には、「第1回ASEAN環境教育国際会議」(インドネシア・ジャカルタ)に、日本から唯一の3人チームでの合同発表者として参加しました。応募時には、日本からも精鋭が集うだろうと考えていた大きな国際学会でしたが、招待講演者として登壇した東大の市川新博士(水処理科学などの専門研究者)を除いて、日本人が自分たち1組のみだったことに、現地で初めて気づきたいへんな衝撃を受けました。飛行機一本で来られる大事な機会に、発表者だけではなく、参集した世界各国のNGOや個人の中にも、日本人は、我々以外、ほんとうにたったひとりも、いなかったのです。
 
持続可能性(サステイナビリティー)が明確に打ち出され、「生物多様性」と「気候変動」の二大条約が締結された、通称、国連地球サミット(リオデジャネイロ、1992年)。ASEAN環境教育会議は、その次の年だったこともあり、ASEAN加盟国だけでなく、それまで個々の努力や活動を重ねてきた欧米を含む19の国々から数百人のの精鋭が集まり、盛大かつ示唆に富む会合でした。
 
最終日には、全体会合が開かれ、「ASEAN環境教育宣言」と「ARCEE(ASEAN環境教育協会)設立」が、熱気の中、全会一致で採択され、国際的な方針を定める場に実際に一員となった幸運を感じたひとときでした。
 
インドネシアには、その後40歳までの間に、仕事で4回ほど行くことになるのですが、1993年のその時は、初めての渡航でした。乗り込んだ、Garuda Indonesia航空の席は、離陸安定後リクライニングボタンを押した途端に、背もたれが後ろに倒れてしまい、席を代えてもらうというハプニングから始まり、不安に駆られたのを覚えています。
 
ところが、人間とは(私だけ?)極めて単純な生きもの(私だけ?)です。
 
そのわずか7時間後、ジャカルタの空港に降りる際には、いつから地面に接したのかが全くわからない、飛行機の中では初めての心地良い着地に驚き、その巧みな操縦士の技術に驚愕したところ、その場で「この会社の操縦士たちはみな、空軍出身の精鋭揃いなのだ」という話しに納得。不安が一気に払拭され、「安全な飛行機ならガルーダだ!」と180度異なる思いを抱く、自分の心の単純さ(素直さ?)を実感した渡航でもありました。
 
そんな時代。環境教育の分野で、運良く様々なエキスパートの方々と出会えたことが、その後、現在までの社会活動面で、どれだけ役に立ったことかは、計り知れません。
 
あ、ここまでお読みのあなた。SDGsで、迷っていたりしませんか?
 
(赤井 裕)

SDGsシリーズ(2)環境教育を「構築」へ


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です